閖上の白い岸壁

県庁からホテルに戻り、舘内さんはここでいったん東京へ。仙台駅へ向かう舘内さんを見送って、ホテルの部屋で資料を整理しつつ、書き切れていなかったブログネタの記事を書く。

資料と荷物の整理に意外と手間取り、昼食を食べる暇もなく。

私はひとりで、まず、閖上の港へ向かってみることにした。

 

閖上とかいて「ゆりあげ」と読む。小さな漁港だが、かねてから上質な赤貝が水揚げされる港で、閖上の赤貝は東京の高級寿司店などから引く手あまただ。

でも。

仙台市と隣接する名取市の沿岸部。仙台空港などにも近い閖上は三角州上の平坦地。津波では900名ほどにもなる多くの犠牲者を出してしまった悲劇の地でもある。

被災直後に見た映像では、港の岸壁はぐにょぐにょに破壊され、港の背後に家並みがあったあたりは、泥にまみれた荒れ地に変わり果てていた。

以前、閖上の赤貝を取材しに訪れたとき、港に店を構える仲卸さんや、港近くの料理店を訪ねてお世話になった。でも、ニュースなどで見る写真からは、そんな建物は跡形もなく消え去っていた。

その閖上に、住民の絆をつなぎとめようという思いから『閖上まちカフェ』という場所があると知り、訪ねてみようと思ったのだ。

 

まちカフェはすぐに見つかった。なにしろ、津波に蹂躙された町並みには、それほど多くの家は建っていない。

砂まみれの駐車場にEVスーパーセブンを乗り入れて、世話役で常駐している針生環(はりうたまき)さんに話を聞くと、閖上漁港はわりと早い時期に漁を再開していて、今では市場や仲卸さんの建物も復旧しつつあるという。

たまたま、まちカフェを訪れた岩城さんとともに記念撮影。

さっそく、漁港へ行ってみた。

真新しいコンクリートが白く輝いている。岸壁では、数人のおじさんたちがのんびりと釣り糸を垂れていた。釣り好きの私としては、道具を借りて少し探ってみたい衝動にも駆られたが、この後、仙台市の南蒲生浄化センターへ行くアポイントを取ってあったので、閖上での時間は30分ほどしか使えない。

すでに、まちカフェで15分ほど使ったから、あと15分。

サイドブレーキを引くのももどかしく、ロケーションと光がいい場所を探して、生まれ変わった閖上の港を写真に収めた。

岸壁には、赤貝の漁で使う、独特の熊手のような漁具を乗せた船が何隻か停泊している。仲卸さんの店らしいプレハブもある。すでに午後の時間だったので、漁業関係者らしい人は誰もおらず、仲卸店の看板もかかっていなかったのは残念だったが、壊滅してしまったと思い込んでいた閖上が、着実に前進を始めている現場を見て、少し勇気づけられる気持ちになった。

日和山と呼ばれる人工の高台そばに、復興売店などができているとも聞いた。

行ってみると、タコ焼き屋さんと売店が軒を並べている。

ここでも写真撮影。

と。

居合わせて、EVスーパーセブンを興味深げに眺めていた数人のグループの中の女性が「私の身内にも、電気自動車を作って鈴鹿のレースとかに行ってた者がいるんですよ」という。

ん?

世の中で、EVを作って鈴鹿へ、なんて物好きは、日本EVクラブ会員である確率が非常に高い。

お名前を伺うと、「片山」だという。

え?

今は研究者としてスウェーデンに行ってしまったが、2001年充電の旅で東京から伊勢へ一緒に行ったり、屋久島へ駆けつけて一緒に島を一周した片山慎太郎君が、片山、だ。

まさかと思って確認すると、まさに、慎太郎の義妹とのこと。

どひゃ。

EVスーパーセブンで旅していると、いろんな人や偶然が吸い寄せられてくる気がしているが、慎太郎の義妹と、閖上で、平日で数人の客しかいない売店の前で出会うとは、奇跡に近い。

思わず心が躍ったが、南蒲生浄化センターのアポイントは、さっき電話して遅らせてもらったさらに30分を使い果たそうとしている状況で、どうにもこうにも時間がない。

とにかく、一緒に写真を獲らせていもらい。

人工の高台で、被災地・閖上のシンボルになっている日和山に駆け上がって、祠と卒塔婆に手を合わせ。。

 

港の向こうの埋め立て地からは、がれき処理のために建設された焼却炉がお役御免になって、取り壊されているという工事の音が響いてくる。

家族や、家の建物が助かった人と犠牲になってしまった人。同じ閖上の人の間にもさまざまな違いや軋轢が生まれて、復旧はなかなかままならない状態であるとも聞く。

日和山の頂(といっても、家の2階くらいの高さしかないが)から閖上の「野原」を眺めつつ、犠牲者のご冥福と、穏やかな町の復興を祈るしかない。

 


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