「八潮市道路陥没事故」と、くるま社会の持続可能性
京都支部/鈴木 一史
「埼玉県八潮市の道路陥没事故」を見て思った。「この事故は未舗装路だったら発生しなかった」と。もし、あの交差点がグラベルのままだったら、仮に下水管の腐食で表土が流されたとしても外から見えるので、巨大な落とし穴に育つことはない。
「世界中の道路舗装を剥げ」というのは、EVクラブ京都支部でもある、我が4WD電気自動車冒険チーム「ZEVEX~ゼベックス」が、28年前の設立時から掲げる活動テーマのひとつだ。我々は「道路」もくるま社会の立派な環境負荷の一部と見なすので、極力「ありのままの地球表面に近い環境を走るべし」と唱えてきた。実際、ロシアには森の防火帯を自動車用の通路として流用している地区がたくさんある。単に木を切って空間を造っただけで、整備はまったくされていないが、知恵と工夫とクロカン四駆の腕前があれば、自動車で相応な速度を出して移動可能なことは、これまでの何度にもわたるチームのロシア遠征で、身体を張って証明済みである。
自動車の走行が安全・快適・高速になることは結構だが、どの程度にそうなれば諒とするのか? どの程度で満足するべきなのか? その着地点を決めずに、むやみやたらに開発を続けた結果が、今回の事故を招いたと言える。京都の龍安寺には「吾唯足知」と書かれた有名なつくばいがある。言わずと知れた「足るを知る」という教えの話だ。道路はどうだろう? 私が感じるに、足るを知った開発がされてきたとは、とても思えない。
日本に初めて高速道路が誕生した60年前、地方へ行けば、まだ結構な主要道路も未舗装だった(見てないけど)。乗り心地の悪いリーフリジットの車両も多かったし、ABSも、その原型が鉄道の世界にようやく登場したばかりの時代だ。この後やたらに舗装が進んで、田舎町からも路地裏からもグラベルがなくなった。そして春になれば、花粉が地面に吸収されずに舞い続けるために箱ティッシュが手離せず、夏にはヒートアイランドで灼熱地獄となる街が、日本中に溢れる2025年ができあがった。
ここで振り返って考えてみる。60年前の自動車が達成していた安全・快適・高速性能で充分だと、その時点で足るを知って着地点を決めていたと仮定する。すると、その後サスペンションがリーフリジットからコイルスプリング独立懸架になって、乗り心地が良くなったぶん、道路の舗装を剥いでグラベルに戻しても、着地点相当の乗り心地水準を維持することは可能だし、ターマック(舗装)に比べれば滑りやすいグラベルでも、ABSがあれば少なくともステアリングは効くから、安全性も上記水準を満たす可能性が高い。その上で、花粉症もヒートアイランドも、現在のように地獄ではない2025年になっていたはずだ。
報道を見ていると、八潮市の案件に類似した舗装道路の落とし穴は、実は日本中に数多くあるらしい。舗装の上から超音波で撫でて、その落とし穴のすべてを見つけることは本当にできるのか? そして補修できるのか? そのための予算は幾ら必要なのか? 道路特定財源が一般財源化され、消えかかった白線も引き直せない昨今の予算状況で、必要な予算を確保できるとはとても思えないし、だから暫定税率は永遠に暫定のまま続ける、とされるのは勘弁だから、だったら一層のこと、現状の人的・予算的水準で手当て可能な水準まで、道路の舗装を剥いだ方が現実的ではないのか?
300年後か500年後か知らないが、山に穴を開け、ブルドーザーで草原を踏み散らかして道路を伸ばして行く行為が、環境面から制限を受ける時代は必ず来る。より「ありのままの地球表面に近い環境下」で、自動車を運用することが求められる時代になる、ということだ。
その時代に生きる人は、クロカン4X4による移動形態が、意外にもサステナブルだという真実に、遅まきながらも気付くことになる。ただし、未舗装路はコースティングが効かないので、走行自体の消費エネルギーは増える。なので、EVであることはマストな時代となる。充電に再生可能電力を使うことによって、人間にとって都合の良い地球環境を維持することが可能になる。

ロシアで森の防火帯を勝手に車の通行に使っている事例。遠くに私が運転する四駆が見える。

大陸ロシア、「ラザレフ~ハバロフスク~ウラジオ」パイプラインの補修用道路。道の左側にパイプラインが走っている。人が目的を持って作った道路なので、ちゃんとしている。