F1の話である。5月13日のF1第5戦、スペインGPでP.マルドナド(ベネズエラ)が乗るウィリアムズが優勝した。今回は、この話だ。

ウィリアムズといえば、かつてN.マンセルがドライブして大活躍したチームである。最近は2004年の優勝以来、勝利の女神に見放されていたからほんとうに久しぶりの勝利だ。また、マルドナドとベネズエラにとっては初優勝である。

そればかりか、3位にはK.ライコネンの乗るロータスが入った。これも20年ぶり近い久々の入賞である。しかも4位にも入賞したのだ。

ウィリアムズやらロータスは、1970年代の後半に私がF1に関係した時代のチームである。また、あの懐かしい牧歌的なF1の時代が始まるのかと、一瞬胸をときめかしたのであった。

ウィリアムズ・チーム率いるフランク・ウィリアムズは、確かF3ドライバーから身を起こしてF1に上り詰めたはずである。1977年からF1に参戦するにあたって、パトリック・ヘッドという、その後に大活躍するデザイナーとタッグを組んだ。彼の設計するF1カーは、ことごく成功し、何度もコンストラクターズ・チャンピオンに輝く。とくに92年のクルマはサスペンションが自動調整されるもので、ナイジェル・マンセルをぶっちぎりでF1チャンピオンに輝かせた。

ちなみにN.マンセルを“マンチャン”と最初に週刊プレイボーイで呼んだのは、何を隠そうこの私であり、マンチャン優勝祈願と称して92年に東京・日本橋からスズカサーキットまでの470キロメートルを2週間かけて歩いたのも私である。ちなみに2週間いっしょに歩いたのが、後に日本EVクラブの副代表になるモータージャーナリストの御堀直嗣氏である。

それから2年。94年の春に私と御堀氏は、電友1号なる電気のフォーミュラーカーをひっさげて米国はアリゾナ州のフェニックスに降り立った。APS500という電気自動車レースに参戦するためであった。そして、この年の10月に日本EVクラブが設立されることになった。

それとウィリアムズの優勝がどう関係するのだと、そうお聞きになりたいに違いない。しばらくお待ちのほどを。

チーム・ウィリアムズが設立された77年の7月に、私は初めて英国を訪れた。F1チームの取材、調査のためである。そして、この年の10月に富士スピードウエイで開催された第2回日本F1GPに、とあるチームのチーフエンジニアとして参戦したのだった。ちなみに日本初のF1GPは、前年の76年に開催されていた。

幸いにも、私がチーフエンジニアを務めたチームは、高橋国光の健闘もあって9位を獲得した。日本のプライベーターチームにとって最高の順位であった。

F1に国内のプライベーターがもっとも熱くなったのがこの頃だった。なかでも京都に本拠を置くコジマエンジニアリングは、自製のF1カーを開発し、世界に羽ばたこうとしていたほどであった。F1は遠い存在から、すぐ近くの、手を伸ばせば届く存在になっていた。それは日本のモータースポーツ関係者を熱くした。

ホンダは、第一次チャレンジを68年にすでに終えており、トヨタにはF1のエの字もなかった。自動車メーカー各社は排ガス対策に躍起になっていて、モータースポーツどころではなかった。

そうした状況で日本のモータースポーツを支えたのは、プライベーターだった。ドライバーが自ら大金をはたくか、小規模のスポンサーを見つけてきて、チームを編成し、メカニックとエンジニアは無い知恵を出し合ってレースカーを自ら設計、製作、改良し、レースを戦っていた。

どのチームも決して裕福ではなく、いまのように巨大なトランスポーターのトラックもなく、よれよれのつなぎを着て、なけなしの金をはたいて日本を巡業していた。

と、ここまで書いていたらウィリアムズ・チームのピットガレージが火災の炎に包まれたというニュースが飛び込んできた。負傷者もいるようで心配である。これでウィリアムズはデーターのほとんどを焼失し、運も燃やしてしまったから、また10年ほど勝てなくなるだろう。残念だ。

話を戻すと日本のプライベーターは貧乏だったが、とても雰囲気は良かった。みんなやる気満々で、燃えていた。なんといってもレースが楽しかった。そして、富士スピードウエイやスズカ(といってもこの2つしか大きなサーキットはなかったが)の先に、F1があった。しかも、76,77年と2度の日本F1GPを経験してみると、F1は手が届くところにあった。

F1がすぐそこにあると思えたのは、日本ほどではないとしても、F1もまだ貧乏だったからだ。現在のように各チームが巨大な風洞を持っているわけでもなく、何百人もスタッフがいるわけでもなく、トップチームが開発費に年間数百億円も使うこともなく、カーメーカーといえばフェラーリくらいしか参戦せず、F1こそがプライベーターだったからだ。

77年の日本F1GPに参戦した私が感じたことは、「なんだF1も同じだ」ということだった。そして、無謀にも「オレにもできると」思ったのである。

それはF1がまだ商業化されず、牧歌的な雰囲気の中で行われていたということだった。

最初にこの雰囲気を壊したのがルノーであった。私が取材に出向いた77年の英国GPに、ルノーはワークスとして参戦を開始した。しかも、ターボチャージャーとラジアルタイヤという、その後のF1の技術を席巻することになる最先端の技術をもって来たのだった。

それはF1カーの開発費が高騰することを意味していた。金をもったチームが勝利すること、貧乏なプライベーターには決して勝利の女神は微笑まないことを意味していた。

こうした実利主義、金満体質を助長したのがホンダであった。湯水のように開発費をターボ・エンジンに注ぎ込み、F1GPを席巻したのだった。

やがて、ルノー、メルセデス、BMWのヨーロッパ勢に、日本のホンダ、トヨタが加わり、F1は自動車メーカーのマーケット獲得代理戦争状態となっていった。それに合わせるように、プライベート・チームは次から次へと自動車メーカーに買われ、チーム監督以下、エンジニアもメカニックも、もちろんドライバーも、自動車メーカーの傭兵となっていった。

それは、日本においては、かつてのグループA、今日のGT選手権、フォーミュラー日本における代理戦争と符合する。

それと軌を一にするようにヨーロッパではF1人気の凋落が始まり、日本ではF1はもとより土着のレースからも観客が引いていった。サーキットに閑古鳥が鳴き始めたのであった。そして、F1のアジア、中東への進出が始まるのであった。

F1やGT選手権等の代理戦争は、モータースポーツに関係する人たちは潤したと思う。私が関係していた頃とはまったく比べ物にならないくらいに、資金は潤沢なはずだ。

それにもかかわらず、F1やGT選手権だけではなく、すべてのモータースポーツが凋落傾向にある。こうした観客依存型モータースポーツの凋落の原因は、行き過ぎた商業化にあると思う。資金が潤沢になるほど、モータースポーツから大切なものが失われていったのだ。

しかし、こうした行き過ぎた商業化の弊害はモータースポーツどころか、いたるところにある。しかも、教育や福祉、文化といった分野が侵食されている。

かつて日本EVクラブとして、佐伯啓思京大教授にお話しを伺ったときに、教授は「売り買いしてはいけないものがある」とおっしゃっていた。私もそう思う。とくに文化や教育は商業化の毒牙から守られなくてはならない。

文化といえば、スポーツがそうである。ロサンゼルス・オリンピックを皮切りに、オリンピックを初めとするスポーツの商業化の勢いが止まらない。同じことが、もっと露骨に起こっているのが、モータースポーツなのだ。

もちろんモータースポーツはお金がかかる。スポンサーなくしてはなかなか成り立たない。だからといって、限りない商業化を許せば、必ず崩壊する。どこかで商業化の歯止めをかけなければならない。

その知恵をヨーロッパに学びたいのだが、師であるヨーロッパこそモータースポーツの商業化の権化である。日本は自ら新しい地平を切り開かねばならない。

そんなときに、懐かしいウィリアムズの優勝である。また、あの懐かしい非商業化の牧歌的F1の時代が来るのかと思ったが、優勝直後のピット火災は、それが夢、幻であることを教えてくれた。ピット火災は、多難なウィリアムズとF1の今後を象徴しているようである。

といったことを「さらば、F1グランプリの時代よ!」(山海堂)にまとめている。F1グランプリが意味を失っていくことを予測したのだが、ほぼその通りに推移しているのが怖い。

執筆は1993年、出版は1994年3月のことであった。この年の3月に私は電友1号をひっさげて米国に向かったのである。

文:舘内端