「ハイブリッドでも、EVでもない」。となれば第三のまったく新しい自動車かと思ったら、なんのことはない。エンジン自動車だった。最近のマツダのCMである。

このCMの言葉使いの裏を探ると、「ハイブリッド車かEVじゃないと自動車ではない」という時代の空気を認めているように思えてしまう。「エンジン自動車だってガンバッテいるんだ」といいたいのだろうが、なんだか負け惜しみに聞こえる。もっとエンジン自動車は自信をもっていい。

上記のマツダのCMは、「ハイブリッド車やEVは自動車じゃない。わが社の送り出すエンジン車こそ自動車なのだ」とすべきではないか。エンジン自動車には、まだまだがんばってもらわなければならない。少なくとも2020年までは独壇場であってしかるべきだ。

カールベンツとゴットリーフ・ダイムラーがガソリンエンジンを発明し、それを搭載した自動車を発明したのが1886年。自動車用原動機としてエンジンには126年もの長い歴史があり、それゆえにもっとも洗練され、完成した原動機なのである。

洗練され、完成されているというのは、寒くても、暑くても、高地であろうと低地であろうと、どこでも使えることであり、壊れにくく、壊れても修理が可能で、経済的に十分に採算がとれ、燃料補給のインフラも整い、整備する人たちの教育も行き届いている。また、生産設備は整い、エンジンを組み立てる労働者や、設計者も十分に訓練されている。一から百まで、エンジン自動車の環境は整備されている。これこそ、126年の歴史が積み上げたものだ。

それに比べれば、EVましてや燃料電池車など、比べるのもおこがましいほどである。その歴史などゼロに等しい。EVにしても燃料電池車にしても、それを(使える)自動車たらしめる環境など整ってはいない。

すべてにおいてエンジン自動車は、EVや燃料電池車に勝っている。エンジン自動車の環境に匹敵する環境を、たとえばEVにおいて構築するのは並大抵のことではない。

一方で、地球温暖化と石油需給の逼迫・枯渇という大きな問題を解決しないことには自動車は生き残れないという状況が迫っている。これを抜きに、エンジン自動車もEVも燃料電池車も語れないのだが、それがなかなかお分かりいただけない。

エンジン自動車VS電気自動車という対立の図式の前提があいまいのまま論議を進めると、明らかにエンジン自動車が有利である。

しかし、これではほんとうにエンジン自動車を擁護していることにはならない。エンジン自動車を真に擁護するには、地球温暖化と石油状況に対する見解をきちんと述べる必要がある。そして、それにもかかわらずエンジン自動車が有利であるとしなければならない。

ここで改めて地球温暖化と石油の今後の成り行きについて述べるつもりはないが、もしこの2つに問題がないのであれば、そもそもEVも燃料電池車も必要ではない。まったくもってエンジン自動車の独壇場であり、擁護など必要ない。

したがって、トヨタがハイブリッド車を、三菱、日産がEVを開発、販売することもなかっただろうし、ヨーロッパのすべての自動車メーカーが、―そうなのだ。あのフェラーリも新型エンツォはハイブリッド車なのだ―ハイブリッド車あるいはEVを開発、販売することを発表することもなかったはずである。

ということは、逆にいえば、世界の多くの自動車メーカーが、上記の2つについて「問題である」と認識していると考えるべきだろう。

それから、ハイブリッド車やEVが登場するということは、従来型のエンジン自動車では、これらの問題の解決が難しいと考えられているということだ。これを認めることが、エンジン自動車VS電気自動車の議論の前提になるだろう。

「それはわかった。しかし、電気自動車は使えないじゃないか」というのが、反EV派の主張である。ごもっともである。ただ、だからといってそのままではエンジン自動車擁護にならないことに留意しなければならない。反EV論は元気よく述べるのだが、エンジン自動車擁護となると、急にトーンダウンしてしまうのはいけない。

そこで、エンジン自動車と電気自動車のベースにある“自動車”を改めて定義しておこう。

自動車は、あまねく世界に広がってこその存在である。だれでも、どこでも、経済的に見合って、走れなければならない。それが自動車の第一条件である。

一方、いまや10億台になろうという自動車保有台数は、環境保護とエネルギー安全保障を除いて論議できない。上記の第一条件と共に、自動車には環境に対する負荷を減らし、エネルギーの安全にも配慮することが求められている。これが第二の条件である。

しかし反EVに夢中になるあまり、往々にしてエンジン自動車がこの条件を満たせないことを忘れがちである。

第二の条件をクリアーしようとすると、エンジン自動車は使えないということが明らかになる。

先に、「それはわかった。しかし、電気自動車は使えないじゃないかというのが、反EV派の主張である」と述べたが、それは第一条件をEVが満たせないことを主張しているだけであり、「それならばエンジン自動車は第二条件を満たせるのか。エンジン自動車だって使えないじゃないか」とEV推進派に反論されてしまうのである。

この点が、エンジン自動車VS電気自動車の論議でかみ合わない点である。

現状では、エンジン自動車は自動車の第二条件をなかなか満たせず、電気自動車は第一条件を満たすのが困難だ。

エンジン自動車を擁護するのであれば、それが第二条件を満たせるようになれるかどうか問われるし、電気自動車を擁護するのであれば、第一条件を満たせないことどう考えるかが問われることになる。

エンジン自動車も電気自動車も、従来と同じように使おうとすると、実は使えない自動車なのだ。

したがって、エンジン自動車VS電気自動車の討論は、ここを出発点にしなければならないことになる。

もうひとつ重要な問題は、それぞれの自動車と身体性=人間性の関係である。

あるいは好き嫌い、趣味性といってもよいのだが、ここに留まると社会性を帯びず、社会から相手にされないマニア論議になってしまう。ここは、自動車と身体の関係とした方が議論が深まる。

そこで登場するのが、自動車の第三の条件である。それは、自動車は人間の身体と親和性を持たなければならなないということだ。身体とは文化的存在であるから、第三の条件は、自動車は文化的存在でなければならないというものである。

第三の条件に関するエンジン自動車VS電気自動車の討論は、大変に興味深いものになるはずだ。自動車雑誌的題材として十分に読者の興味を惹きつけるであろうし、自動車評論として活気と色気のある楽しいものになるだろう。

ただし、くれぐれも第一、第二の条件をお忘れなきように。

文:舘内端