BLOGBANNER

第1回「 TWIZYとデフレカー」

先日、日産でTWIZYなる超小型車に試乗した。軽自動車の半分くらいの大きさのミニカーである。

試乗してみると、大きくて速くて高級なクルマが大好きな私は、小さくても楽しいクルマがあることに改めて気づかされた。

というか、TWIZYはいわゆる自動車ではなくて、自動車ではないクルマが実はけっこうたくさんあることに気づかされたといったほうがよい。これからは自動車ではないクルマの時代だ。

自動車は大きいほど快適だ。威張れるし、周囲を威圧できるので、デカイ面をして街中を走れる。ということで、高級車はデカくて、偉そうな顔をしている。そんなわけで、高級車が好きである。

ということで、ジャガーXJSを買った。5リッター、12気筒で2人乗りという、超ぜいたくなクルマだった。といっても20数年前の話で、手放してもう20年は過ぎた。しかし、いまだに欲しいクルマの1台である。

ある面、高級車は品が悪い。それはそうだ。デカいことはそもそも品の悪さの代表的要素であり、辺りを威圧するなどもってのほかだ。

それで品の良さをもってアイデンティティとする人たちに嫌われる。品の良さもまた格差製造機であり、差別化のアイテムに過ぎないと思うのだが、彼らには高級車の品の悪さがどうしても許せないらしい。

しかし、人間なる存在は思うほどには上品ではない。なんたって命あるものを貪り食い、くさい糞を垂れ、屁をひるのだから。

ということで、私は高級車擁護派なのである。高級車に乗ってニンマリする私を否定できない。

ただ、現在の自動車技術はまだまだ稚拙で、高級車は枯渇寸前の石油資源もたくさん使うし、地球温暖化の原因物質であるCOもたくさん排出する。こうした面からはある種の犯罪車である。20世紀には正しい自動車だったかもしれないが……。

これは述べたように自動車技術が稚拙だからだ。高級車メーカーを気取るのであれば、資源をあまり使わず、CO排出量はゼロの高級車を作るべきであり、高級車を犯罪車の位置から解放すべきだろう。

もし、それができないのであれば、「最先端の技術で作られたわが社の高級車は…..」などといわず、「わが社の技術は地球環境と石油資源の保護には稚拙ですが、いつか必ずそれらに配慮した高級車を作ります。それまで待ってほしい」くらいの宣伝の方がきっとブランドイメージは上がる。

高級車作りを任じるのであれば、高級車を愛しながら、地球的犯罪車に乗ることに引け目を感じている人たちがいることに大いに配慮すべきだろう。

21世紀の高級車の条件は、地球にやさしく、残り少ない石油資源に配慮していることなのだから。

一方高級車は、中級車や低級車がその下にあるように、格差製造車である。

しかし、格差こそ資本主義の駆動力だ。「いつかはクラウン」と願って、毎日死に物狂いで働いた人たちが、今日の(ひずみだらけのモノだけ)豊かな日本を作ったのである。高級車にあこがれ、高級車を夢見たことで日本は発展した。ある面、豊かな日本を作ったのは高級車であった。

高級車を購入し、高級車に乗る人たちは、勝ち組である。いいではないか。勝ち組がいて、負け組の人たちに公平に社会的富が分配されるシステムが整っていれば。もっともそれが我が国の最大の弱点なのだが。

そうした一方で、高級車のイメージが変わりつつある。高級車をほしいと思う人たちの感性、価値観が変わりつつある。

このことに改めて気づかされたのが、冒頭のTWIZYであった。TWIZYは、私の愛してやまなかったジャガーXJSとは正反対のクルマである。果たして私はTWIZYを愛せるのか。

TWIZYはルノーが提案するいわゆるシティーカーだ。サイズは全長が2337ミリ、全幅が1190ミリ、全高が1460ミリ、もちろん電気自動車で、モーターの最高出力には8キロワット(11馬力)と15キロワット (20馬力)の2種類があり、最高速度は時速80キロ、車重は460~490キログラム、1充電の航続距離は100キロメートルというのが諸元である。

これを日産自動車が軽自動車の枠でナンバーを取得して、実証試験を行っている。実証試験とは、国交省が進める超小型車の試験だ。これからはこうした超小型車が必要になるだろうということである。そこにおじゃまして試乗の機会を得たというわけである。

ちなみに軽自動車の規格は、全長が3400ミリ、全幅が1480ミリ、全高が2000ミリ以下で、最大排気量は660cc、最高出力は取り決めで65馬力だ。車重はもっとも軽いものがおよそ700キログラムで、重いものは1トン近くある。

こうしてみると、TWIZYは軽自動車よりもずっと小さなクルマであることがわかる。

だからといって、日本にはシティーカーなり超小型車に規定があるわけではない。各社が「これでどうだ」と提案している最中である。

たとえばそのサイズは、普通車の駐車スペースに3台あるいは4台駐車できるものと考えられている。

一般的な駐車場の1台分のスペースは、長さがおよそ5メートル、幅が2.5メートルだから、ここに3台の超小型車を駐車するとすると、そのサイズは乗降のスペースを無視して全長が2500ミリ以下、全幅が5000ミリ÷3=1666ミリとなる。

TWIZYであれば、一般的な駐車場に4台も駐車できる。国の某委員会で、「だったら超小型車で駐車違反しても反則金は普通の3分の1か4分の1でいいことにすれば….」といって笑いを誘ったのだが、超小型車の普及を促進する人たちは、マジでそんなことを考えているのだそうである。

TWIZYがどんな理由で、どのような社会的背景で登場したのか、それはおくとして、私はいっぺんにTWIZYが気に入った。それは、どんなにTWIZYが小さくとも自動車であり、ルノーだったからだ。

冒頭に自動車ではない自動車がたくさんあるといったが、国産車もその例に漏れない。国産車のほとんどは自動車ではない。自動車のような形はしているが、自動車もどきの走る機械に過ぎない。しかも最近はデフレカーとも呼ばれるようになった。

ここでいきなり自動車論を展開するのは、今回のブロクグの趣旨ではないが、一応、私の自動車に対する意見は付記しておく必要があるだろう。

私にとって自動車とは、愛し、愛される相思相愛の関係が築ける存在であることだ。

愛とは肉体関係であるとは言い切らないが、頭もからだもすべての感覚器官を総動員して感じ取るものである。そして、愛は奪うものであり、愛は捧げるものである。これを自動車でいえば、真の自動車とは、愛を捧げ尽くさざるを得ない存在であり、すべてを奪い取られてもまだ捧げる尽くすことをいとわない存在であり、そうしているうちに大きな愛で包んでくれる存在である。

もう少し具体的にいえば、見て美しく、触って嬉しく、乗って楽しく、出会えたことに感謝できる自動車こそが、自動車なのだ。

振り返って国産車は、最近とみに愛の対象ではなくなっている。愛せず、愛してくれない。

そこにあるのは、便利さという機能性と、安さという経済合理性と、燃費という技術的効率だけである。数値で測れば素晴らしい走る機関=移動機関だが、愛をもって作られてはいず、その代わりに「売ってやる」という毒々しく真っ黒な欲望が渦巻いている。

あなた、そんなことをおっしゃいますが、そうしないと自動車会社は立ち行かず、新車を買ってもらえないのですよ。私らだって許されれば愛をこめて生産したいですよ。あたりまえじゃないですか。でもね、安い移動機関しか売れないのですよ。甘いこといってちゃ困りますよ。

うちの××なんか、ばっちり手を抜いて安く作って、その代わりちょっと燃費を良くしたら、売れる、売れる。ドアはペラペラ、閉めると“ベシャッ”て卵がつぶれたような音がするんですよ。走り? いいわけがないじゃないですか。CVTっていう無段変速機使ってるものですからね、とろい、とろい。アクセル踏んだって進みやしない。内装? ペラペラ。シートの生地は悪いし、ダッシュボードは安っぽいプラスチック丸出し。でもいいんです。たくさんの人に喜んでもらえてますから。

自動車メーカー担当者が本音を言えば、こうなるのかもしれない。しかし、大人社会は本音はいわないことになっている。どこからもこんな声は実際には聞こえてはこないのだ。

また、そうしたデフレカーを必然の成り行きとして、マスメディアはむしろ廉価車を褒め称える。とくに経済アナリスト諸君や経済誌の記者たちは、アジアでの、あるいはメキシコでのデフレカー生産に遅れをとったりすると、そのメーカーを批判する。

デフレカーは必然である。そのことに異を唱えるつもりはない。その原因は米国発のグローバリゼーションであり、具体的には米国の金融政策である。一自動車メーカーが立ち向かうには、あまりにも敵(米国)は強大である。必死に耐えるしかない。

ただし、デフレカーは自動車産業の不幸の始まりであり、終着点である。生産者もユーザーも、誰一人として幸せにはしない。だが、デフレカーにシフトできなければ、そのメーカーはここ10年は生き残れないことも確かである。

ヨーロッパの自動車メーカーも、たとえドイツの高級車メーカーであっても、デフレカーの生産にシストせざるを得ず、その準備に怠りない。しかし、なのだ。

TWIZYは、ある面、その典型といっていい。デフレカー最前線である。すでに紹介したように小さい。しかも普通車の駐車スペースに3台から4台も駐車できるほどの小ささである。さらに、高級車のアイデンティティである高出力=大馬力ではない。また、内装と呼べるような代物の内装ではない。高級車の証であるウッドパネルのコンソールなどまったく影も形もない。ボディは、ピーンと張りが出て塗装のノリが良く光り輝く鉄板ではなく、プラスチックだ。

だが、TWIZYには思想がある。哲学がある。そして、乗る人に対する愛がある。この3つこそ、ボケてしまった国産自動車メーカーが失ったものだ。

TWIZYの愛は、五感を研ぎ澄まして、精神を集中させて、発進させればすぐにわかる。

アクセルペダルの踏み加減に即座に応えるモーターの瞬発力、こう発進してほしいという感覚そのままに発進する駆動力の管理、街中を走るクルマたちに後れを取らないどころか、それらを一瞬にして追い抜いてしまうパワー。ハンドルは軽すぎず、重すぎず、手応え感があり、高速でもまったく不安を感じさせない。

TWIZYは私のからだと共にあり、私の分身のように振る舞う。

TWIZYの最大の愛は、私にいつまでも乗っていたいと思わせるところにある。たった30メートルの試乗で降りたくなる国産車が多いが、久しぶりに出会えた「降りたくないクルマ」であった。

こんな愛を感じたことがあったと思いだすと、それはかつてのルノー・キャトルであり、現在のメガーヌであり、ルーテシアであった。つまりTWIZYは、これほどに小さなクルマでありながらルノー車であったのだ。

ということは、身体感覚を喪失してしまい単なる移動機関を作る国産メーカーがもし超小型車を作ったとしても、それはやはり腑抜けの移動だけできる移動アイテムになるに違いないということだ。

TWIZYをガールフレンドやボーイフレンドに置き換えるのはどうかと思うが、よく似ている。

TWIZYは、いつまでも一緒にいたいガールフレンドであり、ボーイフレンドなのである。1日か2日、一緒にいればたちまち離れがたくなるに違いない。

良い自動車と、夢中になる自動車は違う。良い自動車はあらゆる機能、性能に破綻がない代わりに、たいてい少しも面白くない。その典型がトヨタ車であることに異論はないだろう。これは、優等生がもてないのとよく似ている。

TWIZYは、後者である。乗る人を夢中にさせる魔力を持っている。

愛の力は魔力である。憑りつかれたら離れない。あるいは離れられない。私も危うくTWIZY神なる神霊に憑りつかれるところであった。

デフレカーの特徴は、ドアが“ビシャッ”と卵がつぶれたような音を立てて閉まることだが、TWIZYにはドアがない。正確にいうとドアがないタイプとあるタイプがあり、ない方が楽しい。そして、あるというドアも高さは通常の半分で、雨風を完璧にしのげるわけではない。

ところが、TWIZYのドアはビシャッとは閉まらない。スウーッと閉まる。というのも、ドアが空くときには、開くのではなく、上方に上がっていくのだ。TWIZYのドアは上下に動くのである。

横浜の港近くで試乗した。コースは、レンガ倉庫街、元町、中華街、フェリス女学院のある山手町などであった。この辺の道は、2車線道路と峠の小道と商店街の混雑した道で構成されている。

TWIZYは、そんなくねくねした道を軽快にというよりも爽快に良く走る。車体が小さいとこんなに爽快に走れるのかと、改めてミニカーの魅力を発見できた。

ミニカーとは、すぐれて身体的であり、私のからだとたちまち一体化してしまうのだが、そのことをルノーは良く知っている。一方、国産の小型車・軽自動車の弱点はここにある。私と一体になることをかたくなに拒否する。

ドアの閉まりを論評しようにもドアがない。その結果、街との親和性が大変に高くなる。交差点で止まれば、メルセデスのクーペに乗ったオヤジが窓を開けて話しかけてくるし、街角で止まれば母親と子供がカワイイを連発してくれる。商店街であれば、焼き栗売りのお兄さんの声がそのままストレートに聞こえる。もちろん、果物屋さんのお姉さんにこちらから話しかけることも可能だ。

街から嫌われ、商店街からは追い出され、歩行者には睨みつけられるのが自動車である。自動車とは、オーナーなる個人には好かれるが、社会=公共には嫌われる存在なのだ。しかし、TWIZYは街に溶け込み、私たちの身体がそうであるように、町とたちまち一体化してしまう。まさに、私と町をしっかり結びつける縁結びの神である。

そんな親和的な一面と、街の狩人的な側面もTWIZYは持っている。

私のことだから街中を優等生のようにずっと走っていたわけではない。2車線の道路では、右に左にひらり、ひらりと車線を変更して前のクルマを追い越し、交差点で一番前に停止して信号が変わると、我先に飛び出すのだが、これが実に軽快なのだ。ビルの間をすり抜けていく疾走感がたまらない。

この疾走感は、どんなにパワーアップされようが、小型車や普通車サイズのスポーツカーでは得られないだろう。いや、そもそもパワーの問題ではない。言ってみれば小ささの問題だ。

試乗した日は、幸いなことに日差しが温かであった。少しばかり厚着をしてコートを着れば、暖房の無い車内、しかもドアがなく風が容赦なく巻き込む車内でも寒さを感じずにすんだ。

しかし、雨の日や、ましてや雪の日や、暑さ厳しい夏の日中では、さすがに根を上げるかもしれない。そんな日には、天気の神様を恨み、暑ければ裸で乗ればよい。つまり、TWIZYは自動車ではないのだ。自動車ではない乗り物に乗るには、これまでとは違う乗り方=乗車スタイルを学ばなければならないのだろう。

歳をとった私には、もう無理かもしれないが、若い人たちは、そうした自動車ではないクルマとの付き合い方を身に着けてほしい。そんなことをTWIZYは語っていた。そして、TWIZYは電気自動車との付き合い方も示唆していたのだった。電気自動車も自動車ではないのである。

こんなブログを始めたので、よろしく。

文:舘内端