「日本でしか売れない車と、海外で売る車と、日本車の二分化が進んでいる。日本車が今後どうあるべきか悩ましくなってきている」

そう語るのは日産自動車最高執行責任者の志賀俊之氏である。日本自動車工業会会長を辞するにあたっての記者会見でのことだった(朝日新聞12.4.14)。

国産カーメーカーのマーケットは、国内、米国、中国・アジア、欧州の四極である。このうち欧州マーケットでの敗退はかなり濃厚になってきた。また、何でも売れてしまう米国マーケットでは韓国現代の追い上げが厳しいが、善戦している。中国・アジアのマーケットでは、コストダウンさえうまくやればバンバン売れる。

志賀氏が悩ましく思っているのは、それらのマーケットと国内マーケットの乖離だろう。あるいはもっと絞り込んで、国内マーケットの扱いかもしれない。これは国内全メーカーの悩みに違いない。問題はいわゆる自動車離れである。とにかく売れない。

カーメーカーのマーケティング部門には優秀な人材がいるはずである。また、彼らが情報源としている大手広告代理店にも優秀な人材がいるはずだ。

それでも国内の自動車販売がぱっとしないのは、いかに優秀な彼らでも現在進行中の自動車離れの原因は解析不能であり、対処方法も手探り状態なのかもしれない。

日本の自動車マーケットでは、いったい何が起きているのだろうか。

そんな折、哲学者は鷲田清一氏のインタビュー記事が載った(朝日新聞 12.4.26)。題は「モードもう魅力ない?」である。昨今のモード現象は、もう論評の対象としては魅力や意味を失ってしまったのかとの記者の問いに答えたものである。

この記事を読むと、モード離れと自動車離れが同時代現象であることがわかる。大きく時代が変化する中で、モードも自動車も、それを見つめる消費者の目線が変わってきたということかもしれない。それがガラパゴス日本だけの現象なのか、それとも世界的な現象なのか。記事を追ってみたい。

ところで、自動車離れを私個人の問題に還元してみると、自動車離れによって自動車が売れなくなったことも私の状況に関係するが、それよりも上記の記者のいう「もう論評の対象としては魅力や意味を失ってしまったのか」という点だ。

自動車“評論”家を自認する私が感じていることが、まさにこれなのだ。

自動車評論は、というよりもすべての評論は時代状況と切り離すことができない。もちろん、その中で自動車と社会との関係が変化するので、社会との関係で語るしかない。

ところが、自動車と社会の関係がどんどん希薄になっていってしまったのである。自動車に引きつけていえば、社会との関係を論じるだけの力と意味と時代性をもった自動車がどんどん少なくなっていったということだ。

自動車評論は、したがって行き場を失っていった。当然ながら、自動車雑誌も行き場を失っていった。それが問題かどうかは論じなければならないとしても、そういうことだ。

90年代、私は自動車を論じても元気になれなくなっていった。いや、それどころか、自動車評論が憂鬱になってしまった。出社拒否症ならぬ自動車評論拒否症に罹患してしまったのだ。

少し注釈を加える必要があるだろう。自動車と社会の関係が希薄になったといっても、日本の基幹産業である自動車は、経済・産業との関係が希薄になったわけではなかった。また、環境・エネルギー問題と自動車の関係はますます強く深刻になっていった。

これらを語る語り口=論評の意味は存在する。しかし、自動車の本質とは、環境・エネルギー問題だけではなく、経済・産業だけではなく、熱い血が通う生身の身体との関係なのではないだろうか。

自動車とは、所有したり、乗ったりして、ドキドキしたり、満面の笑みを浮かべたり、怒ったり、泣いたりする存在であるはずなのだ。しかし、そんな熱い関係が構築できなくなっているのだ。

モードは、どうだろうか。鷲田氏のインタビューを追ってみたい。

鷲田清一氏と日本EVクラブには関係がある。といっても日本EVクラブの勝手な思い込みだが....。

実は鷲田先生には、98年に日本EVクラブでご講演をいただいた。第Ⅲ期EV手作り教室のオープンフォーラムの講師をお願いしたのだった。

このEV手作り教室は、昨今の乱暴な改造EVの講習会とは一線を画する格調の高いものであった。改造時の車両や作業者の安全さえ無視し、単に改造のノウハウを教えるだけの講習会が多いが、それでは改造の持っている奥深さや意味が伝わらず、EV文化は構築できない。

そこで、様々な意味合いから鷲田先生に哲学講義をお願いしたのであった。また、オープンフォーラムという名前のとおり教室の生徒だけではなく、だれでも参加できるものであった。

そうしたこともあって、その後も鷲田氏の発言、著作には注目してきた。そこに上記の記事である。読まずにはいられない。

鷲田氏は、「モードの迷宮」、「たかが服、されど服」などモードへの発言が多い。だがそれも「90年代半ばまで」で、以降最先端ファッションから距離をおくようになったという。

これは国産車が頂点を極め、バブル経済が崩壊して凋落していった時期と重なる。

国産車は89年に頂点を迎える。スカイランGT-Rの復活、セルシオ(後のレクサス)、ユーノス(後のマツダ)ロードスター、ホンダNSX、シーマ(88年)など、国産車の頂点を極め、後に名車と呼ばれることになった新型車がつぎからつぎへと登場し、飛ぶように売れたのだった。

やがてバブル経済が崩壊し、沈鬱なムードに日本全体が包まれると、それ以降登場した国産車は徹底的にコストダウンされ、見るも無残になっていった。そして、現在まで国産車のあの華やかさは帰って来ていない。ということで、89年が頂点と呼ばれるのである。

一方、モードは90年代前半に「リアルクローズやぼろぼろの重ね着スタイルのグランジ、ユニクロなどが次々と出て来た頃から、モードの水準が変わってしまった」(前出)という。「1世紀続いたモードという現象がもう終わるのかなと」思ったということである。

また、「山本耀司さんも『かったるくなっている』と言っていましたね」ということだ。

90年代の前半にバブル経済が崩壊すると、私も同じような思いを自動車に抱いた。急に国産自動車といわず輸入車といわず、自動車を語ることがだるくなり、自動車を論ずることに80年代のようなモチベーションを感じられなくなった。お母さん、あの頃の私(と自動車)はどこへいったのでしょう。そんな思いを抱いた。

新型車に興味を失いつつあった私は、92年の秋に私探しの旅に出かけた。東京から三重県のスズカサーキットまで450キロメートルを2週間かけて歩いたのである。そして、その年の初冬に先進的な電気自動車に出会い、翌93年に電友1号を製作、94年春に米国のEVレースに参戦し、10月には日本EVクラブを設立するなど、急速にEVに接近したのだ。

それ以降、自動車はつまらなくなった。けれどEVは最高に面白いという状態が、とうとう20年近くも続くことになった。そして、その間に世間では自動車離れがますます進行していった。

その中で、友人の自動車評論家、ジャーナリスト諸氏も、私と同じように新型車に興味を失っていった。だが、日に日に面白くなくなる自動車をしかめっ面をしてみているしかなかった。

いまになって思うのだが、実は80年代に(エンジン)自動車の時代は終わっていたのだ。最後のあだ花が89年の上記の新型車群だったのだ。それらは(エンジン)自動車時代の終焉を告げる花火だったのである。それがバブル景気と重なっただけのことだ。

一方、始まりつつあったのは次世代車と呼ばれる一群の脱石油非エンジン型自動車の開発競争であった。もっとも華やかだったのは燃料電池車である。

95,6年頃から始まったトヨタとホンダの燃料電池車の開発競争は火花を散らした。2000人ともいわれる技術者と年間500億円ともいわれた開発資金を投入し、先陣争いを繰り広げたのだ。

だが、開発競争に火花を散らした燃料電池車も、近年脚光を浴びているEV=電気自動車も、それまでのエンジン自動車に比べれば、静かで、クリーンで、上品な自動車だった。マッチョな自動車野郎も、メガネをかけてうつむき加減に秋葉原を歩く自動車マニアも、まったく関心を示しそうにない自動車だったのだ。

そうした次世代車にワクワクするには、実は100年続いたエンジン自動車との関係を、一端清算しなければならない。

しかし、そんなことが必要だとはつゆ知らない多くの旧来の自動車ファンは、次世代車に見向きもしなかった。次世代車にワクワクする回路を見つけられずに行ったのだった。

ある意味、自動車離れとは20世紀型自動車からの離別である。マーケットはそう言っている。

しかし、自動車メーカーから続々と登場する新型車は、20世紀のあの自動車との熱い関係の残滓でもあればともかく、それさえも失い、だからといって21世紀にも飛び立てない半端な自動車群であった。

モードの世界はどうであったのか。インタビュー記事を追ってみよう。

鷲田氏は、「60年代から80年代末までずっと、日本にはある意味とんがったファッションが存在した。たとえばミニスカートによって女性は大股で歩くようになり、男に品定めされずに自分の体と対話しながら服を主体的に着るようになった」という。それらがヒッピーブームにつながり、やがて80年代のDCブランドブームが起こり、自分のライフスタイルや価値観をモードという記号で競い合ったというのである。

80年代、自動車はどうだったか。

81年に登場したトヨタ・ソラアが80年代をある意味で象徴する自動車かもしれない。これはホリデーオート誌で“ハイソカー”、すなわちハイソサエティーカー=上流社会自動車と呼ばれることになり、その後の高級車ブームを牽引することになった。

だが、ハイソカーのオーナーはハイソサエティーの住人ではなかった。中流以下の若者たちだった。彼らはソアラも、セドリックも、クラウンも、マークⅡも、みな中古車を買った。ありったけのお金をはたいて彼らのいうところのハイソカーを買うことが自分の証であり、女の子にモテる条件であった。自分の存在証明であった。

もっと過激に自己主張したかった若者たちは、ボディを激しく改造した。それらは当時のレースカーを模したもので、ボディのノーズ下部を1メートルも前に伸ばし、派手なウイングを付け、マフラーを竹やりのように天高くボディ後方に聳えさせた。通称“竹やり出っ歯”といわれるクルマであった。

こうした竹やり出っ歯カーは集団で暴走した。元旦には河口湖をめざして関東中の竹やり出っ歯カーが中央高速道路に終結した。

社会問題化したのはもちろんである。暴走する竹やり出っ歯カー、それを追いかける機動隊とパトカーという、かつての学園闘争ばりの闘争?が街中で繰り広げられた。自動車が熱かった。そしてとても尖がっていた。

一方で軟派なハイソカーで女の子とデートをし、そのまた一方で硬派な竹やり出っ歯カーで暴走を繰り返す。若者たちは、はた迷惑な存在ではあったが(いつの世もそうだが)、自己を主張する力に溢れていた。

こうした自動車状況は、鷲田氏のいう「ヒッピーブームにつながり、やがて80年代のDCブランドブームが起こり、自分のライフスタイルや価値観をモードという記号で競い合ったというのである」というモード=自己主張の状況と酷似していると思うのだ。

総じていえば、80年代は自己主張の時代であり、自己主張したい若者がいたということではないだろうか。そして、そのアイテム=消費対象物としてモードや自動車が選ばれたのである。

ただし、注目したいのは、彼ら若者は自動車メーカーの商品戦略にそのまま乗ったわけではないことだ。ハイソカーといっても、新車のそれを買ったわけではなく、中古車であり、しかも高級車なら何でも良いわけではなくY30セドリックと特定していた。

精鋭的だった若者は、改造に沸いた。竹やり出っ歯カーは、派手なボディに改造することで、ほとんど原形をとどめなかった。

これは、ジーンズを破り、上着をボロボロに破り....と既成のフッションを自分なりに改造するモード現象と重なる。なりたい自分像があり、そこに近づくことに情熱を燃やせる時代が用意されていた。

だが、バブルがはじけ、後に失われた10年と呼ばれる90年代が始まると、経済は停滞し、世の中から華やかさが消えて行った。かつての成長、拡大、増大という右肩上がりの時代の終焉であった。

「右肩下がりの時代にはもう、“ネクストニュー”という感覚に心はなびきません。心地良い暮らしのために、服は食べ物や本、友達、環境への意識などと総合的に自主編集していくための一つに変わってきた。モードに振り回されることが少なくなった分、衣食住ともに、自分の心と体に聞いたささやかな感覚を大事にするようになってきた。まっとうで、素材にも敏感で、いい感じです」

と、鷲田氏は90年代を見る。

それは、私には新しい時代の到来に映る。自動車はカッコ付きの“自動車”という特別な存在ではなくなり、衣食住の一つであり、生活を彩るすべての商品の中でバランスを考えて選ばれる生活道具の一つという静かな位置を占めようになった。

そうであれば、自動車は生活総合誌の中で、生活道具の一つとして評され、比べられるものとなってしかるべきである。このことは、自動車“専門誌”の凋落を意味していた。自動車は、鍋、釜、掃除機と比べられる商品なのだから。

しかし、「その半面、モードはつまらなくなった」のであった。自動車もまたつまらなくなっていった。

このころを境に、自動車は自己表現の消費アイテムではなくなり、熱く心を揺さぶるものではなくなり、社会を語るツールとしての力も失っていった。自動車は、たんにマーケティングをもとに企画され、デザインされていった。つまり、売れれば良い単なる商品になっていったのだった。

自動車は、社会との関係性を断ち切り、小さくまとまり、自分の中に沈潜していった。自動車を表現する媒体は金銭だけになっていった。自動車は経済的産物としてしか語れなくなってしまったのだ。当然、論評して面白いはずもなかった。

自動車を見つめる消費者の選択基準は、自分を熱くするものであるかどうかではなく、冷徹な経済性だけとなった。安くて、広くて、燃費が良いかどうかだけが選択基準になった。消費者は、他の商品も同様だが、悪い意味で合理性だけで選ぶようになった。

自動車メーカーと消費者は共犯者である。両者が共鳴したところに自動車という商品は成り立つ。

自動車メーカーは、「だって消費者は合理的に自動車を選ぶんだから....」という。マーケティングをすると、そういう答えが出るというのだ。

消費者は、そうした合理性だけで作られた自動車しかディラーで見ることができず、したがってそれらを選ぶしかなく、広告も「安いですよ。広いですよ。燃費がいいですよ」、そうした自動車が良い自動車なのですよといっているではないかというのである。その結果、広告代理店のアンケートに、「安くて、広くて、燃費の良い自動車が欲しい」と答えるのだ。

これを“時代の空気”ということもできるだろう。

時代は、自動車で社会や人間を語ることを求めてはいない。また自動車は、社会や人間を変えようとはしなくなった。

自動車評論は魅力を失い、自動車雑誌の販売部数は低迷したのである。それが90年から2010年までの失われた20年という時代なのであった。

最後に、今後のことについて鷲田氏の言葉を引用しておこう。

「どんな分野から何が出てくるか、あるいは時代がそんな流れをしないのか、誰にも見えません。ふと見過ごしてしまいそうなところに意外な種が落ちているかも知れませんね」

氏の言葉を受ければ、20年前にふと見過ごした自動車の種が電気自動車だったのかもしれない。少なくとも私は失われた20年間、電気自動車からたっぷりと力をもらい、これまでの人生でもっとも楽しかった。最近は、電気自動車の楽しさに気づく人たちが増えてきたようである。

文:舘内端