自動運転車レースのお知らせ!

第22回日本EVフェスティバル(11月3日筑波サーキット)では、自動運転車によるサーキット・レースを行います。世界初かどうかはわかりませんが、日本初です。

2016年10月10日 / 舘内端『自動車の力』 /

 

自動運転車に関心のある方。ぜひお出でください。人の乗っていない自動車がサーキットを疾走するのです。これを見逃したら自動車の進歩においていかれます。

ただし、自動運転車レースの初回は、ピットからラジコンで操縦することも許されています。2020年には完全自動運転車(レベルⅣ)によるレースを開催する計画です。

自動車の運転が禁止になる...

連日のように自動運転車開発の記事が新聞、TVを賑わせています。2020年には自動運転車が市販されると報道されています。

東京オリンピックでは専用高速道路を走れるのは自動運転車だけになるでしょう。やがて、運転免許は不要になり、自動車学校は廃校に、運転免許センターもなくなり、もちろん更新の手続きも不要です。これからは自動車を運転するのは法律で許されなくなるのです。えっ?

そんなことはないとは思いますが、ないとは言い切れません。運転を職業とする方は雇用も不安になりますし、運転が好きな人は茫然自失かもしれません。運転が禁止になれば、試乗記は有名無実で自動車評論はできず、自動車雑誌は廃刊です。そんなことはないとは思いますが....。

 

消えた馬と馬車

かつてヨーロッパで陸上の移動(モビリティ)を支えたのは馬と馬車でした。しかし、ゴットリーフ・ダイムラーとカール・ベンツが現在につながるガソリン自動車を1886年に発明すると、やがて馬車も馬もモビリティの主役の座を降りました。御者も馬車メーカーも次々に姿を消していきました。

そして、現在、馬車は皇族のパレードに、各地の観光地で使われるようになりました。そして馬は、乗馬としてオリンピックの競技に採用され、競馬として人々を楽しませています。

近い将来には、自動車の運転は特殊身体技能として無形文化財に認定され、F1ドライバーや自動車評論家は、長らくリスペクトされるのです。もっとも自動車の運転をしない人がほとんどになると、現在の私たちが乗馬や競馬で馬を操ることのほんとうの難しさがわからないように、自動車の運転も?になってしまい、リスペクトされるかどうか怪しくなるでしょう。

 

自動化技術が奪ったもの

しかし、そうしたことは生活でも仕事でも文化でも、山のようにあります。それは、私たちが「素晴らしいもの」として教え込まれた《技術の進歩》によるものです。

小川でしていたころの洗濯はとて辛い家事だったといわれますが、水の中で手で布をもむと汚れが少しずつ落ち、だんだん白くなっていくあの感触は電気洗濯機では味わえず、電気釜で炊くご飯とキャンプで薪で炊くご飯には、明らかに違いがあります。なんといっても「洗濯したぞ!」、「ご飯を炊いたぞ」という達成感が違います。

 

ハンマーひとつで叩き出したベレG

仕事でも同じです。私がかつてレースカーを作っていた会社の社長はハンマーひとつでベレットGTの試作車を叩き出しました。多くのベレGファンは、きっと社長の手の暖かさを感じていたに違いありません。

また、小型のフォーミュラーカーのボディのマスターモデルは、社長が叩き出したのでした。社長のハンマーの柄は鉄板の感触が伝わりやすいように、社長の手に合わせて削られていました。そのボディは、なんとも言えず人間臭く、柔らかで、温かみのある形で、そっと触りたくなるものでした。

 

3Dプリンターが奪う人間国宝の手の技術

しかし、社長の亡くなった今日、そうした作業は「生産性が悪い」、「効率が悪い」、「グローバリゼーションで生き残れない」と批判されます。そして、3Dプリンターという高度技術が社長の身体に取って代わろうとしています。

それを私たちは「進歩」と呼んで称賛していますが、多くの自動車ファンはコンピューターでデザインされたボディの味気なさに気づいています。手で洗車したくなるボディではないですね。自動車離れの一因に違いありません。

ですが、それが「進歩」なのですから、受け入れなければなりません。今やPCどころかスマホを使えない人は、人間ではないのです。原発を初めとして、技術の進歩にはこうした負の側面があることを知っておく必要があります。

 

人間とは手の延長である

人間は、手を使って「人」になりました。手はすぐれた脳でもあるのです。生活や仕事の場面で手を使う機会が減るたびに、私たちは脳の働きの一部を失っていきます。心の病は、手を失うことで起こるといってよいでしょう。

私の大切な友人の星野富弘は、手の感覚がありません。正確にいうと、頚骨を骨折したために首から下のすべての感覚を失ったのです。彼は、新しいものに出会うと見るだけではなく、すべて奥様に頬や額につけてもらいます。頬で触感を、額で重さを感じるのです。私の妻がぬいぐるみを贈ったときもそうでした。奥様にぬいぐるみを頬につけてもらって、「暖かくて、柔らかだね」と深く頷きました。星野はそうしてぬいぐるみを「知った」のです。知るとは、見て、聞いて、匂いを嗅いで、そして触って知ることを言うのです。

 

自動車は手で知る

自動車を知るとは、自動車を見て、聞いて、匂いを嗅いで、触り、運転することなのです。

自動運転車では、自動車を知ることができません。

知ることができないモビリティが現れることは、つまり自動運転車が登場することは、社会に大きなインパクトを与えます。そのインパクトを法律の改正も含めて、私たちは数年で受け入れなければならないのです。そうとうにハードなことです。明治維新に江戸の町に現れた蒸気機関車を受け入れたことよりも難しいと思います。

自動車を知る行為のひとつが、それで競争することです。スポーツのギアとして自動車を使うことで、自動車の極限的な姿を知ることができます。それは自動車を深く知ることにつながります。

 

自動車運転車レースを観て、来る未来を考えよう

そこで、無人で走り競争する自動運転車レースは、いったい私たちに何をもたらせるのか。きっと負の側面ばかりではなく(反面教師かもしれませんが)、さまざまな知見をもたらせるはずです。

日本EVクラブでは、このレースに参加する車両を「進歩」をさせながら、東京オリンピックの開催される2020年に、完全自動運転車によるレースを開催したいと思います。

ぜひ、日本EVフェスティバルの自動運転車レースをご覧になって、共に自動運転車の登場する社会を考えましょう。

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