舘内端の「自動車の力」:第22回「自動車批評の原点 その2」

中沢新一著 「野生の科学」から①

中沢新一氏の著作である「野生の科学」を引用するにあたって、まずは私の立ち位置を述べておかなければならないだろう。

大学を卒業して念願のレーシングカー・エンジニアとして設計図を引き、現場でレースカーの調整を行うようになった私は、レーシングドライバーなる存在から頭をガツンと殴られたようなショックを受けた。1970年代のことであった。

レーシングドライバーのいうことは、まったく科学的ではないどころか、日本語としての体をなしていないと思った。意味不明、何をいっているのかわからない。ということで、レーシングドライバーとは世の中の大多数の人間とは別種の生き物だと思った。

だが、やがて彼らこそが正しくレーシングカーの挙動を言い当てていると思うようになったのであった。私の中で科学・技術への厚い信仰心が崩れていった瞬間だった。レーシングドライバーの発する言葉は、まさに表題の「野生の科学」の言葉だった。

幼いころの私の興味の対象は、模型の電車であり、エンジン付きの模型飛行機であり、蒸気機関の模型であった。しかし、模型に飽き足らなかった私は、小学3年にして早くも原動機付き自転車の運転をし、中学1年にして子供用自転車に50ccのエンジンを取り付けたバイクを、2年にしてエンジンカートを製作していた。

そうした私は、自分を理系の人間だと信じて疑わず、原子力をエネルギーとする鉄腕アトムが世界を救うものと思っていた。

工学部機械工学科というバリバリの技術系学科を卒業した私は、世の中のすべては技術で変えることができ、世界を救うのは技術であると信じて疑わなかった。

サーキットでドライバーとエンジニアの間で交わされる言葉は、たとえば「尻が出る」であり、「入らない」であり、「つきが悪い」、「持っていきがいまひとつ」といった内容である。

一方、私が学んだ自動車の操縦性安定性の専門用語は、“オーバーステア”であり、“アンダーステア”であり、“レスポンス”であった。そうした自動車専門用語を使うことを自慢にしていた私の鼻は、サーキットという修羅場で見事にへし折られたのであった。

一見、私が学んだ技術専門用語が自動車の挙動を正しくとらえているように思える。しかし、レーシングドライバーが身振り手振りを交えて語る「尻が出る」という言葉が、より真実を言い当てている。

レーシングカーの役目は、速く走ってレースに勝つことである。しかし、レーシングカーだけでその役目は果たせない。レーシングドライバーが運転して、初めて可能になる。レーシングカーを運転するのは、現場のエンジニアでもなく、事務所で働く設計者でもない。レーシングドライバーなのだ。彼らこそ、サーキットの主役なのだ。

自動車とは、そこにドライバーなる人間が介在して初めて成立する機械である。

そうであれば、開発者はドライバーの言葉こそ、大切に聞かなければならない。

もっとも、その面倒な人間を決定的に排除しようという自動運転自動車の開発が自動車技術者の最終目的になっている。しかし、それは人間不信の究極の姿であり、現代の科学・技術の犯しやすい過ちの典型であり、自動車の絶滅への道程だ。

自動車を運転するのが機械ではなく、ドライバーなる人間とすれば、自動車はドライバーの発する言葉でこそ、造られるべきだ。

自動車を研究材料とするとしても、ドライバーなる人間を除外して研究は成り立たない。

しかし、現代の科学は人間なる複雑な存在を解明できない。そこで自動車の研究においてもドライバーの要素を省くことになる。あるいは、研究者の思い通りの行動をする模造人間を想定することで、自動車という機械-人間系を成り立たせようする。

そのような模造人間を自動車という機械の系に組み込んで開発された新型車は、ユーザーに想定した模造人間と同じ行動=運転を行うよう求める。それを教育するのが自動車運転教習所である。

ここでは多くは述べないが、そうして、とくに日本車はドライバー軽視のあらぬ方向に進んでしまったのである。ただ効率が良いから、運転が楽だからと、無定見にCVT=無段変速機を採用し、増大させているのが、何よりもその証拠である。

では、現代の進歩したといわれる工学や科学は、なぜ生身の人間に迫れないのか。

というところで、「野生の科学」を紐解こう。

文:舘内端

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