舘内端の「自動車の力」:第21回「自動車批評の原点 その1」

ノーベル文学賞を受賞した中国の作家、莫言(モーイエン)氏は、「作家には社会的な責任があると思います」と述べている(朝日新聞 2012.10.28)。

自動車評論家が自動車を批評するのは社会的な責任があるからだというのが、私が自動車批評を行う最大にして基本的な根拠である。私の言葉でいえば、少々傲慢に聞こえるかもしれないが、「知ってしまった者には責任がある」からである。

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誰に向かって、何を、どのように伝えるのか。発言するときに、私はいつもこのように自問する。さらに、「なぜ発言するのか」を考える。

迷いに迷って、最後に到達する砦のようなものが、上記の「責任」なのだ。

だが、本当のことを言えば、それは強固な砦でもなく、仕方がないので「そう思おう」としているところもある。

生活の糧の3分の1ほどを自動車批評の原稿料に頼っていた頃は、「生活のためだ」と自分に言い聞かせていた。それはそれでなかなか強力にして都合の良い言い訳なのだ。しかし、そうした生活から距離を置くようになると、そんな都合の良い言い訳も効力を失う。

歳を取れば社会的な責任も薄まるかもしれない。しかし、歳を取るほどに経験は増え、知識も増える。これまで見えなかったものも見えるようになる場合もある。また、自動車批評で生活の糧を稼ぐことから多少なりとも解放されると、見えてくることが多い。私の発言にニーズがあるかどうかはどうでもよくて、歳を取るほどに「責任」が重くなるように感じている。

その責任は、生活の糧を稼ぎながら自動車批評をしているときには、とても勇気がなくて批評できなかった大物に向かって牙をむくことだと思う。

その代表がカローラであったり、トヨタであったり、CVTであったりするのだろうが、それらは私に言わせれば小物である。最大の大物は内燃機関自動車なのだ。

内燃機関自動車は、1886年にゴットリーフ・ダイムラーとカール・ベンツによって発明されたとされている。それ以来、今日まで126年の歴史があり、石油供給がショートしない限り、しばらくは存在するはずである。その大物中の大物を批評することを日課?としている。

126年もの歴史があるということは、内燃機関に従事した人たちの数は(数少ない自動車評論家も含めて)、何十億人になるのではないだろうか。また、これまでの内燃機関自動車の数たるや、現在の世界の保有台数が10億台近いのだから、何十兆台にもなるかもしれない。

内燃機関自動車を批評するとは、126年の自動車の歴史と対峙することであり、何十億人、何兆人の亡霊と、10億人からの現行ユーザー、自動車関係者を向こうに回しての戦いである。相手に不足はない。これは自動車評論家としての冥利に尽きる。ただし、食ってけるかどうかは別だが。

すべての批評がそうだが、批評者は対象の外部に出ていなければならない。自動車批評者もまた、自動車の外部に出なければならない。自動車にどっぷりと浸かって自動車を批評することはできない。自動車壺なる井戸から出て、自動車を外から眺める目線がなければならない。いわゆる井の中の蛙状態からの脱出だ。

しかし、自動車=内燃機関自動車しかない状態では、自分が自動車壺なる井戸にどっぷり浸かっていることさえわからない。自動車の外部から発言するのは、きわめて難しい作業なのだ。

内燃機関自動車を井戸の外から眺めるには、同等に走る内燃機関自動車以外の自動車が存在すると都合が良い。それは蒸気自動車でも、ソーラーカーでも、燃料電池車でもよいのだが、現実性からいえば電気自動車が最適である。

(内燃機関)自動車を批評する者は、(内燃機関)自動車の外に出なければならない。ということは、自動車評論家は(内燃機関)自動車の井戸からの脱出を可能にする電気自動車から【 (内燃機関)自動車を】批評するという視点を批評作業に組み込まなければならないということになる。

それを否定するのであれば、つまり電気自動車に無関心を装うのであれば、せめて蒸気自動車なり、ソーラーカーなり、燃料電池車(といってもモーターで動くので電気自動車の一種なのだが)なりを、自身の批評作業に組み込む必要がある。だが、現実にそれらはないに等しいので、電気自動車に頼るしかない。

極論ではあるが、電気自動車を自身の自動車批評作業に組み込まない自動車批評は、電気自動車が量産されている現在においては成り立たない。A車とB車の比較に、常に電気自動車的視点を加えるべきなのだ。そうすることで、初めて内燃機関自動車井戸から外に出た視点からの自動車批評となる。

批評は、批評する者だけのものではない。批評の必要性からいえば、作者が第一の読者である。批評とは作者との対峙を第一とするからだ。

(内燃機関)自動車生産者=作者は、自身の作品=内燃機関自動車を判断するのに、対抗する内燃機関自動車だけではなく、電気自動車を加えるべきである。つまり、電気自動車の視点をもった自動車批評を参考にすべきなのである。

電気自動車をメディア=媒介として、内燃機関自動車を外部から見ると、実は自動車がきわめて危険な状況に置かれていることがわかる。これは電気自動車が発見させる内燃機関自動車の状況である。

それらを要約すると、

・原油供給の危機的状況

・地球温暖化の危機的状況が呼び起こすCO2排出量規制の強化

・マーケットの感受性の変化

となる。

これらの危機的状況については、ことあるごとに発言し

てきたので、それらを参考にしてほしい。

さて、自動車批評が向かうべき最後にして最強の相手は、現代という時代である。とくに自動車の研究・開発、生産のベースとなっている科学・技術が難敵であり、自動車を10億台も増大させてしまった社会システムが相手だ。

相手に不足はないのだが、これらを批評するには私だけでは到底不可能である。現代あるいは過去の賢人たちの見識に頼りたい。

科学にしても、技術にしても、現代の社会システムにしても、それらは善であると認められている。カローラであり、それを支える大衆社会のようなものである。したがって批評が大変に困難だ。あたりまえのこと、常識に反旗を振りかざすことは、いつの世でも難しく、危険である。

たとえば20年前に内燃機関自動車という常識に反旗を振りかざした私は、狂人扱いされた。もっとも、それ以前から変わった人だといわれてきたのだが.....。

上記のように、(内燃機関)自動車は今後にきわめて生存が難しい (この状況はぜひ理解してほしい)。そのように(内燃機関)自動車の存続を危機に陥れた主犯は、科学であり、技術であり、社会システムである。

自動車なる存在を、それが電気自動車であろうと、完璧に否定するのであれば、私は自動車を守るために次の手を繰り出さなければならない。しかし、それは追い込まれてからにしよう。

ということで、次回からしばらくは中沢新一氏の「野生の科学」に導かれて、科学・技術・社会システム批評をしていこうと思う。

文:舘内端

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