舘内端の「自動車の力」:第19回「トヨタとカローラを斬る その1」

カローラは、トヨタを代表する車種である。それがモデルチェンジされた。そこで河口湖の試乗会にでかけて、乗せていただいた。

かつては、カローラ、コロナ、クラウンがトヨタのバックボーン=背骨であり、トヨタはこの3車種を大量に生産し、販売して大きくなった。カローラを批評するとは、まさにトヨタを批評するということである。

また、この3車種は国内専用モデルといってもよいほどに、国内で売れた。日本のユーザーのニーズを丹念に調べ上げ、ユーザーになりきって企画され、設計され、生産され、販売された。つまり、この3車種は“日本”なのである。この3車種を批評するとは、日本を、日本人を批評することになる。

やがてカローラは海外に大きく羽ばたくことになり、日本の外貨獲得の礎となったのだが、それは“日本”を輸出したということでもある。カローラが海外で売れたとは、“日本”が売れたということであり、海外に“日本”を知らしめたということでもある。

その日本がいま、政治、経済、産業、教育、生活、文化であえいでいる。何が起こり、何がダメなのか。では、“日本”を造り、“日本”を売ってきたカローラに問題はないのか。良くも悪くも日本の背負うカローラを語るとは、現在の日本を語ることにもなる。

ということで、トヨタとカローラと日本を斬るのだが、とてもじゃないがなまくらな刀では斬れない。しかも、私の刀は使い込んで刃がボロボロである。果たして斬れるかどうか、正直なところ自信はない。

ところで、カローラほど自動車評論家に無視されてきたクルマはないだろう。存在があまりにも巨大で、斬るにきれず、だからといって納得はできないからだ。

カローラは、見て、乗ってみると実に味気ない。少なくとも買う気にはさせない。だが、気になって夜も眠れなくなるクルマなのである。その理由は2つある。

ひとつは、どこを見ても、触っても、欠点が見つからないことだ。つまり、どこにも悪い所がないのである。だからダメだといえない。

ということで、試乗記でカローラをダメなクルマだと評論したものはないはずである。

しかし、腑に落ちないのだ。これを良い自動車だとも、買うべきだとも、大声でいえない。奥歯にものが挟まったような評価しかできない。それがもどかしい。

もうひとつの理由は、大衆からの圧倒的な支持である。いや、支持されているかどうかはわからない。正確には圧倒的な販売台数というべきだろう。カローラは良く売れる。それも安定して売れる。

したがって、カローラに刃向うには大衆から離反するかもしれないことを覚悟しなければならない。失敗すれば、自動車評論家としての命を失う危険性が大きい。

圧倒的な販売台数を誇り、しかも悪い所がない。そんなクルマをこき下ろす度胸のある自動車評論家はいない。かくいう私も恐ろしくてできない。しかし、どうにも気に入らない。

ということで、ここは無視するにかぎる。つまり、論じないということだ。だが、これでは自動車評論として敗北である。

一方、トヨタはどうか。カローラを生み育てたメーカーであるだけに、カローラと同じ体質なのである。つまり、どこから見ても欠点は見つからない。それどころか、仕事に取り組む姿勢のまじめさばかりが目立つ。もっとも国や行政の委員会やらでは、なかなかしぶとい発言をしているし、コストダウンに関しては外注に決して甘くはないということだが。

それはともかくとして、自動車造りという観点からは隙はない。自動車造りに欠点は見つからない。そして世界一位を脅かす販売台数と、圧倒的なシェアである。とくに品質の高さと信頼性の高さは、世界一だ。このトヨタをばっさり斬るなど神様に刃向うようなものだ。

斬れない理由を整理すると、多くの人たちに支持(ここでは支持といっておこう)されていることと、自動車として欠点が見つからないことである。しかも価格も決して高くない。これは大衆商品として最高の在り方だ。

これに反逆するとなると、その自動車評論家は大衆が嫌いだということになる。「気取ってんじゃないよ。お前だって大衆の一人だろう」と2チャンネルでくさされておしまいである。

ということで、トヨタとカローラを斬るのは、今世紀の難題なのだ。

だが、私はひるまず果敢に攻めてみる。なぜなら、トヨタとカローラをきちんと批評することが、難局にある国産車と日本の産業の未来を照らす鑑となると思うからだ。

おっと、大上段に出たが、私が斬れるといっているわけではない。斬ることに大きな意味があるといっているのである。少なくとも斬るためのガイドラインというか、枠組は提出しなければなるまい。

ここで、もう一度問題を整理したい。トヨタもカローラも大衆に支持されている。これが斬れない第一の理由であった。第二は、自動車として欠点が見つからないことであった。

この2つを別の角度というか、別の価値観から整理するとどうなるか。

まず大衆からの支持だが、はたして大衆から支持された商品は正しい商品なのだろうかという疑問だ。つまり、大衆は正義なのかということだ。これについては、次に展開する大衆論を読んでほしい。

第二の理由である自動車として欠点がないという点だが、ここでは“自動車”が問題となる。もう少し踏み込むと、“自動車の評価軸”が問題になる。何をもって正しいあるいは良い自動車とするかだ。

良い自動車の条件の一つは、運転のしやすさだ。運転において、ハンドル、アクセル、各種スイッチ、シート、窓からの景色などなど、いずれも違和感がなく、操作が簡単で便利なことだ。さらに短時間の試乗では判定できないことだが、信頼性つまり故障が少ないことである。

おそらく電気冷蔵庫であれば、これで必要十分である。

しかし、自動車は違う。自動車は移動の道具であると同時に、身体と深くかかわる機械である。利便性や信頼性、価格だけでは良い自動車としての必要条件を満たすだけで、十分ではない。カローラは、はたして必要条件も満たすのか。

たとえば、壊れなければ正しい自動車なのだろうか。品質の高い自動車は、それだけで満点なのだろうか。

もし満点ということであれば、その価値観は病人や身障者は永遠に満点を取れないという価値観に通じないだろうか。機械と人間は違うかもしれないが、技術主義に犯されている私たちは、人間もまた同じ価値観で判断しがちである。

突然だが、国産車の多くはドライバーを求めない、ドライバーの世話にならないことをもって善としている。この思想が国産車の利便性と信頼性の高さの背景にある。

ドライバーの世話にならないとは、ドライバー不在で成り立つということだ。そうした考えの行き着く先は、全自動自動車車、自動操縦自動車である。この自動車は限りなく便利だ。そして、限りなくどうでもよい存在である。だが、“便利”に価値を置くこと、便利なことは良いことという価値観こそが大問題を引き起こしていることに気づかねばならない。利便性の高さが善であるとは限らない。

一方、人間は自分が求められる存在であると、自分が必要な存在であるとわかると、幸せと感じる。そして、その対象を愛するようになる。

その典型が親と子供の関係である。子供は親なくして生きてはいけない。子供は親を求める。親を必要とする。親は子供に奉仕する?ことで大きな満足を得る。それを愛という。

だが、子供は成長すると親を求めないどころか、口も利かなくなる。その寂しさたるや知る人ぞ知ることなのだが、壊れなくなった自動車もまた成長した子供である。寂しいものだ。

かつてヨーロッパ車はよく壊れた。買った人たちは、壊れるとブーブーいいながら面倒をみた。それが“外車”への愛を育んだのである。

壊れることで、修理の職人と知り合いになり、彼らの薀蓄に耳を傾け、修理道具やら機械の知識が豊かになり、同じ自動車に乗る人たちとの出会いの場が生まれ、そうして故障車を媒介として濃密な関係が構築できて、彼の人生は豊かになる。彼は自動車を必要とし、その自動車は彼を必要としたのだ。

国産車もかつては壊れたが、壊れることを悪とし、悪は退治すべしと、技術を磨いて壊れない自動車を造った。中には、「わが社の自動車の個性は壊れないことだ」と豪語している経営トップもいるが、それは(壊れないほどに)愛されなくなったことを自慢しているようなものだ。えっ、知らなかったってか? 病は深刻だ。

壊れず、整備もしなくて済むようにするために重要部品をブラックボックス化した。私たちユーザーは、面倒を見ようにも自動車の面倒が見られなくなった。自動車の面倒を見ることを、自動車メーカーに拒否されたのであった。自動車は私たちユーザーを必要としない存在になった。自動車メーカーは、生産者と自動車との関係に、私たちユーザーが介入することを拒否している。自動車が子供で、親がユーザーなんて甘い関係は成り立たなくなった。

ボンネットの開け方を知らない人たちが増えた分、自動車を愛する人たちが減ってしまった。自動車はどうでもよいものになってしまった。これが自動車離れの実体である。

それは世の趨勢であるから仕方ないという考え方もあるだろう。これは、世の中はどんどん便利な方向に進む。ついていけない商品は売れず、企業は脱落するしかないという考え方だ。

そうかもしれない。しかし、それが好ましい方向かというと、私には異論がある。便利になることによって(壊れないことも便利さの指標である)、私たちは大事なものを失ったのではないかという強い疑問が残る。便利になることをもって進歩などと、口が裂けてもいいたくない。

それは置くとして、利便性と品質を自動車の上位の価値とすると、たちまち韓国、中国、アジア諸国にキャッチアップされるだろう。これらはいわゆる技術によって達成可能だからである。技術に国境はなく、人種差別もなく、努力すれば何人も手に入れることが可能だ。だから日本は(利便性と品質だけは)欧米に追い付き、韓国、中国、アジア諸国は日本に追いつくのである。

後述するが、ヨーロッパの技術はそうではない。ヨーロッパの技術には日本が江戸末期まで保持し、現在は失った匠の技が残っている。これは、そこに三代住み込んで、彼らと同じものを食べ、同じ言葉をしゃべり、たとえば祖父・父・息子がサッカーに夢中にならなければ手に入れられない。日本も、韓国も、中国も、アジア諸国も、容易に手に入れることはできない。

だから、日本の自動車メーカーがドイツ車を作れないように、韓国も、中国も、アジア諸国もドイツ車は作れず、高級車マーケットは、あいかわらず彼らのものなのだ。

日本の自動車メーカーがヨーロッパの自動車メーカーにどうしても勝てなかったというか、造りこめず、それゆえにブランドして確立できなかったのが、自動車の乗り味であり、デザインであり、質感である。

詳しくは機会を改めて述べるが、これらは歴史や伝統、それらによって培われた身体感覚なくしては造りえない。日本という土地で、あるいは日本人には造れないものだ。これがヨーロッパにおける日本の自動車メーカーの敗北の理由である。

つまり、ものに価値を置いていると、やがて日本の自動車産業はアジアに食われてしまうということである。自動車離れとは、日本の自動車産業没落の明らかな兆しなのだ。

では、カローラを作った価値観と、それに基づいた技術とは何か。

やがてアジアの国々がキャッチアップしてしまう利便性やら品質やら効率やらといった工学技術が自動車においてもっとも大事なものだとする価値観と、そこから派生する技術以外の“何か”によってカローラは作られているのか。

もし、そうでないとすればカローラはやがてアジア諸国に、かつて日本の自動車メーカーがそうしたように、すっかりコピーされてしまだろう。えっ、もうそうなっているってか? ウーン。遅かったか。

新型カローラは、見て、触って、乗ってみるとすぐわかるが、完璧なコストダウンが施されている。残念ながら、そのことがカローラの質感を下げていることは否めない。

このことは、カローラとトヨタの現在の立ち位置を端的に示すものだ。ひとつは強烈な円高である。世界を市場とするカローラに、現在の円高は致命傷である。もうひとつは攻め入るアジアカーである。とくに米国カーオブザイヤーを獲得した韓国車の勢いが止まらない。これらに対して新型カローラの開発陣は、徹底的なコストダウンを施して対処しようとしている。

現在、国産自動車メーカーの工場流出が止まらない。このままでは空洞化はさらに進む。

これに対してトヨタは、国内生産300万台を死守しようとしている。だが、コストダウン以外の方策を見いだせないでいる。300万台の死守はたいへんにありがたいが、それが生産現場の労働コスト削減につながるであろうことが危惧される。

次は大衆論だ。果たして大衆に支持される自動車は良い自動車なのか。もし、そうであれば国民投票をしてベストテンを選べばよいのであり、自動車評論家は不要である。

ユーザー投票によってカーオブザイヤーを決定するという企画があるが、これは自動車評論家不要論であり、プロによる自動車の評価と真っ向から対立する企画である。もし、この企画に負けるようなことがあれば、自動車評論は敗北する。大衆さえ存在すればよいのである。はたしてそうだろうか。

某自動車雑誌に、「どうして自動車評論家の選ぶ自動車は売れないのだ。世間とずれている自動車評論家は無能だ」という投書があったという。

これに対して自動車評論家は、きっちりと反論できなければならない。という話は次号に。

文:舘内端

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