11年の12月3日、つまり去年の12月だが、この日に「電気自動車でご飯を炊こう!」という劇というか、パフォーマンスというか、そんなことをやった。場所は、小劇団の垂涎の劇場といわれる北沢タウンホールである。これは下北沢にある。

今回はその話をしよう。といっても、話はどんどんドリフトしてしまうのだろうが。

このパフォーマンスは、世田谷区が主催、企画は公益法人せたがや文化財団生活工房、作、演出、出演が日本EVクラブという陣容で行われた。

世田谷区と生活工房の意図は、「環境と生活デザイン」をコンセプトとした“何か?”であった。そこで日本EVクラブが考えたものが、上記のパフォーマンスというわけである。

副題がある。「電気自動車が問いかけるエネルギーの未来」であり、問いかけは「節電の時代に、電気自動車は有効か」というものであった。

といわれても「電気自動車でどうやって飯を炊くのだ? 電気自動車は電気釜か、ウン?」という疑問があるだろう。分からなくて当然である。しかし、最初から内容が分かってしまうパフォーマンスはつまらない。「えっ?」と思ってもらってナンボだ。

もちろん、こんな訳のわからない題を考え付いたのは私であり、作も、演出も、主演も私である。

そうなると、「あんたは自動車評論家のはずだ。自動車評論家がそんなことをしていいのか」といわれるかもしれない。だが、何をやっても逸脱してしまうのが私なので、ここは勘弁してほしい。

ただ、本人はきわめて正当な自動車評論であると思っている。その判定はみなさんにおまかせしたい。

ところで、去年の原発大爆発以来、ようやくのんきな日本でもエネルギー(問題)に光が当たるようになった。それは大歓迎なのだが、どこでどう間違ったか、「こんなときに電気自動車を使うのはいかがなものか」という貼紙を駐車中のi-MiEVし貼った御仁がいたのである。なぜ知っているかというと、貼紙をされたのが日本EVクラブの会員だったからだ。

先日、日本カーオブザイヤーの総会が東京タワー近くのビルで行われた。出席すべくビルのドアを開けると携帯電話が鳴った。出ると、「こんな時代に電気自動車を使うとはなんだ」という読者がいるのですが、ご意見を…..という某自動車雑誌からのコメントのご要望であった。まだそんなことを言っている人がいるのかと思いながらも、私にしては丁寧にお答えした。

このブログの読者のみなさんも、そうした疑問をお持ちかもしれない。原発が全部止まるかもしれないご時世である。電気が足りないときに電気自動車に充電するのはどうかと思ったとしてもおかしくない。

これは、電気自動車なる新手の自動車のことがまだよくお分かり頂けていないことによる誤解だと思う。情報不足が原因だ。

ところで、ある部族では初夜権は部族の長にあるという。新郎は蚊帳の外で、花嫁は処女を族長に捧げる。なぜかというと、処女とは初物であり、初物は危険であり、十分に経験を積んだ者が対処しなければならないという部族の掟があるからだ。

電気自動車の歴史は長い。1899年に自動車として世界で最初に時速100キロメートルの壁を破ったのが実はジャメ・コンタントと命名された電気自動車だった。それくらい歴史が長いのだが、自動車メーカーが本気で量産したのは今回が初めてである。そういった意味では電気自動車は初物である。

初物は忌み嫌われる。人生で初めて接するものであり、初めて見るものであり、よく分からないのだから、怖くて当たり前、危ないと思って当然である。ここは人生経験豊かな長老の出番というわけだ。

幕末に初めて蒸気船を見た人たちは、どんなに怖かったろう。あるいは新橋を出発した蒸気機関車は、周辺の人たちにとてつもない恐怖を味あわせたに違いない。子供たちを押し入れに閉じ込めた親もいたことであろう。初物は、なかなか受け入れてもらえないのだ。

電気自動車もほとんどの人にとって初物である。多くの人が恐怖に震え、忌み嫌い、激しく排撃してもおかしくない。電気自動車の生産者を初めとして関係者は、電気自動車の導入にあたって、大いに注意すべきだ。

しかし、自然界は初物であふれている。初物尽くしだ。鴨長明は方丈記で「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」と喝破している。いわゆる無常観である。“常”は“無”いのだ。

鴨長明は、川を流れる水は、つねに元の水ではない。また、泡も生まれては消え、消えては生まれて、一定ではない。世の中の人も、住居も、同じで、常に変化し続けるという。自然は千変万化するのである。

これは、変化し続けるのが自然だということである。

そうであれば、私たちは常に新しいものに囲まれていることになる。風も、小鳥のさえずりも、空の色も、新陳代謝を繰り返している。そうして変化してやまない自然に柔軟に対応できなければ、命を永らえることはできない。私たちもまた変化し続けなければ生き残れないのである。

時代もまたそうではないだろうか。時代が常に変化してやまないのは、日々変化する自然と私たちを取り囲む人工的環境に時代そのものが順応しようとするからだ。

しかし、自然にしても、時代にしても、急激にして大きな変化には、なかなか順応できない。地球温暖化しかり、石油の枯渇しかり、円高しかりである。

こうした局面を打開するのがパイオニアあるいは冒険者たちである。そして打開に成功し、私たちに変化から富をもたらせるのが英雄=ヒーローである。

米国市場は柔軟である。悪い言い方をすれば、なんでも貪欲に買い、受け入れてしまう。「アメリカなら何だって売れる」と自動車メーカー関係者に言わしめる。

これは、米国がネイティブを侵略したことで作られた国であり、そのためには冒険心とパイオニアワークが必要だったので、上記のような柔軟なマーケットが生まれたに違いない。

トヨタのハイブリッド車が国内でさっぱり売れなかった2000年代の初頭に、米国ではガソリン価格の高騰を背景に爆発的に売れ始めた。これは米国市場の危機対応能力=柔軟性によるものだ。

日本では、そうした米国でのハイブリッド車の売れ行きを見てから、ようやく売れ始めたのだった。

先の初夜権でいえば、柔軟なマーケット構築の経験の長い米国が、ハイブリッド車という処女を最初に受け入れた族長の役目を果たしたのであり、そうしたパイオニア、冒険者たち、そしてヒーローが米国にはたくさんいるのである。

冒険心をとみに失いつつある日本のマーケットは族長たる米国市場の動きを見て、ようやくハイブリッド車を受け入れる気になった。一方、さらに保守的なヨーロッパはいまだにハイブリッド車に懐疑的である。トヨタもヨーロッパでは苦戦している。

同様なことは、電気自動車でも起こる。まっさきに電気自動車を受け入れるのは米国市場に違いない。「米国は自動車での移動距離が長いから、電気自動車なんて使わない」とおっしゃる方は、純粋な日本人であることに誇りを持ったらよい。

なぜハイブリッド車や電気自動車が登場しつつあるのか。伊達や酔狂ではないことは、おわかりいただけるだろう。

また、不要であれば自動車メーカーなる営利事業者が、わざわざハイブリッド車や電気自動車を開発し、販売するわけがない。開発しても、すぐに儲かるわけがなく、そうとうのリスクを背負うのだから。

賢明な方であれば、このように推論するに違いない。そして、ハイブリッド車や電気自動車は、自動車(と自動車産業)が生き延びていく上に必要だからに違いないと推論するだろう。

なぜか。その理由はおくとして、そうだとすれば、私たちもハイブリッド車や電気自動車を受け入れなければならないことも、賢明な方であればすぐにお気づきになるはずだ。

しかし、ハイブリッド車も電気自動車も初物である。世間では、どちらが受け入れられやすい初物なのか論議していると聞くが、笑止千万だ。

ハイブリッド車や電気自動車を最初に受け入れるのは、パイオニアであり、冒険者であり、それに成功し、帰還すればヒーローである。

なので、世の中の先端で自動車を考え、論じている自動車評論家の多くが、ハイブリッド車や電気自動車を購入し、自腹で確かめているのだ。えっ、そんな話は聞かないってか。ウーン? 自動車評論家諸氏よ、冒険者たれ!

そろそろ電気自動車でご飯を炊く時間だが、来週までお待ちいただきたい。

文:舘内端